オンラインから抜け出よう、ちゃんとやることやろう、と思いながら、ついつい更新してしまうわたし。なんだかんだ言って、色々なオンラインツールがあるなかで、私自身いちばんしっくりハマるのはブログだなぁと、思う。ツイッターは刹那的だし、フェイスブックはなんだか“つながり”の環境が変わってしまって、あまり気乗りしなくなってしまった。
というわけで、やっぱりブログだな!ふふふ。一貫しないわたし。
まあ、そんな個人的なオンライン観なんてどうだって良いのだけれどさ。
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8月に、大学時代のゼミ仲間と再会した。もちろん、教授をお呼びして。
そもそもが、ダークサイドが続いて変なつらさを感じていたとき、いわば“駆け込み寺”となっている教授にお会いしたいと思ったのが発端。2年ほど前と同様、まず先生にお声かけしたのだが、また私とのサシ飲みでは先生もさぞ退屈だろうと、ミニ同窓会に急遽アレンジ。ゼミ友にさらに声をかけて、計6人で、神楽坂に集まることとなる。
その夜は本当に久しぶりの感覚を持ち、なんというか、これまで「考える」ということをいかにサボってきたか、ということを心底思い知る。教授は、5年前とまったく変わらず私たちにつねに“何か”を投げかけていて、それがこころに次々と鮮烈に響いていく。一方で友はというと、ある一人はおびただしい量の本を読んでいたし、その上で自分の考えをきちんとコンストラクトしていた。またある一人は自分の立場の中で、きちんと社会科学的見地を持ち続け、同時に自分を、かなりの完成度の高さで、分析していた。
ヤバイなぁと思ったし、同時に「あー私、こんなふうに悩みながら死んでゆくんだろうか」とか、漠然と、極地的な思いを、わけもなく持ったりした。
そのときその場で図らずも挙がったことがある。
現役ゼミで、学生に対して、「発表」しないか、ということ。
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5年前に書いた卒論を、振り返る。
そんな、「ふつう」であればやらないようなことを、やることになった。
意味もなくショックなど受けている場合ではない、と思った。
すごい。本当にすごいこと、であるのだ。
5年前の自分の考えを、振り返ること。
5年前の自分の熱さを、思い出すこと。
あわせて、5年経って、母校のキャンパスに、「発表者」として赴くこと。
その意味と全貌がわかっていくにつれ、興奮を覚える。
教授はテーマのタイトルに「リフレクション」というキーワードを入れた。
はっとする。
ああ、すべてはひとつなのか。
自分の信念とか、自分がどう生きたいのか、とか、自分の感覚、とか…
たとえば過去が、燃える自分、いろんな価値観を感受してきた、variousな自分だとして、今が、静な、monoな自分だとする。これまでは、なんというかすべてはつながっていなくて、過去と今と、分けて考えてきたけれど、そうではないのだ。なんだかひとつ区切りをつけて時代を閉ざしてきたようなつもりでいたけれど、結局はひとつだということか。昔から、自分はひとつなのだ。もっと言えば、閉じた時代を「いつか開けばいい」と思っていても、自分から開かなければいつまでも「そのとき」は訪れない。未来に、なりたい自分があるのなら、きちんと今は鏡として未来の自分を照射しなければいけないのだ。未来の自分はきっと、過去の自分とも今の自分とも同じ線の上にいる。
だからきっと、照射のヒントのひとつが、5年前の自分であり、学生の集大成である、卒論なのだ。
5年前の問題意識は、一貫しているか。
いま振り返ることで、未来に光を当てられるのか。
過去の自分の思いが強ければ強いほど、照射する光は強くなる。
今の自分の多角的な分析が豊かであれば、照らす鏡は大きくなる。
そして照らし出される未来への路は、明るく、強く、ゆるぎないものになる。
道はひとつなのだな。
信じて、振り返るしかないのだな。
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まだ考えがまとまっていなくて抽象的でつまらないことしか書けません。
とにかく5年前の卒論のテーマは、とある時代のとある国の革命モデルを題材にしたコミュニケーション論。
あのときの自分の情熱まで、気持ちを高まらせることができるのでしょうか。